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書籍『クレオパトラⅦの追憶』(デジタル版&アプリ版、発売中!)は、
2000年の時空を超える女と男の心理を丁寧に読み解き、
歴史の真実をあぶり出す、洗練された高貴で華麗な愛の物語。

クレオパトラⅦを追って、UPされたのが
『YOGA COSMIC SYSTEM 0・1の彼方へ 能力覚醒独習法』
そして『般若心経&YOGA 四苦・八苦の彼岸へ』。
on tour 気分も味わいながら、舞台裏話へのご潜入を!
2017.09.05

“書く”こと“読む”ことの恐さ

このところ連日、大量の書籍を古書店にぼちぼちと運んでいる。が、
故パートナーの書斎の本を、紙袋へ詰め込んでいると、
“うん?”と思って、ついつい拾い読みをしてしまう。
昨日、ゾクッ! としてしまったのは、
『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』(洲之内徹/新潮社)である。

同書のP.68に「セザンヌの塗り残し」というタイトルがあり、そこを読んだ。
著者は「あれはいろいろと理屈をつけてむつかしく考えられているけれども、
ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、
塗らないままで残しておいたのではないか、」
「セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなく
そこを塗り潰してしまったろう。―――辻褄を合わせることだけに気を取られていて、
辻褄を合わせようとして嘘をつく。――セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。」
と。

確かに、その通りには違いない。しかし、朝比奈はうーっ! と唸った。
メルロ=ポンティの『メルロ=ポンティ・コレクション』
(中山元 編・訳/ちくま学芸文庫)を読んでいたからだ。
『セザンヌの塗り残し』が発行されたのは昭和58年だから、洲之内徹は
“事”の経緯を、知る由もなかったに違いない。

そして洲之内は、「絵から何かを感じるということと、
絵が見えるということとは違う。」
といい、絵を見る修練について語る。
絵を見る「修練」とは、「――眼を頭から切り離す――」
「批評家に借りた眼鏡を捨てて、」
と続く。

これはもっともなことだが、なぜ、セザンヌの絵に対して、
「批評家に借りた眼鏡を捨てて、」?なのか? と訝る。
セザンヌの絵は、そもそも、問答無用! ダイレクトに心身に迫ってくる。
批評家云々の言葉を聞いたら、セザンヌの眼には涙が光るに違いない。

セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』は、44点の油彩と43点の水彩がある。
メルロ=ポンティは『眼と精神』において、「見る」「見える」ということに
深く迫っている。
そして、同時代に近しく生き、こよなくセザンヌを愛した
メルロ=ポンティは、『サント=ヴィクトワール山』諸作に深いまなざしを注ぐ。

洲之内徹の文章は、なんとも後味が悪い。自身こそ、鈍感なスノッブでは?
という疑いを消すために、画集の『サント=ヴィクトワール山』のページをめくった。
そこには、優しく逡巡しながら、力強く立ち上がる
サント=ヴィクトワール山が呼吸していた。

統合失調症に苦しんだセザンヌを身近にしていた、
メルロ=ポンティの優しい“まなざし”が、朝比奈に届いたような気がした。
そして「“書くこと”は、自身のヌードを見せることより恥ずかしいことだ」といった
故パートナーの言葉が脳裏をよぎり、
朝比奈の思念は、深く、深く沈んでいった。

ここで朝比奈の頭の中に、「人世は短い。本丸にアタックせよ!」という、
いつもの言葉が飛び出した。
そうだ! セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』を、
ブリヂストン美術館へ観に行こう!
そう宣言すると、「ブリヂストン美術館は長期休館中ですよ」とS……。

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Georges Seguin (Okki)


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