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書籍『クレオパトラⅦの追憶』(デジタル版&アプリ版、発売中!)は、
2000年の時空を超える女と男の心理を丁寧に読み解き、
歴史の真実をあぶり出す、洗練された高貴で華麗な愛の物語。

クレオパトラⅦを追って、UPされたのが
『YOGA COSMIC SYSTEM 0・1の彼方へ 能力覚醒独習法』と
『般若心経&YOGA 四苦・八苦の彼岸へ』。
on tour 気分も味わいながら、舞台裏話へのご潜入を!

そしてon tourから、グ~ンとWARPして
YOGAと瞑想のブログ“Open! Mind & Body,”へ!!
2018.10.12

孤独死とは何か? 死ぬ時は“孤独”でしょ!?

前回「孤独死」について書いたが、どうも、イマイチすっきりしないので、
さらに追求してみたいと思う。
まず、「孤独死」という概念が、問題である!
死ぬ時は、通常、自分ひとりである。心中や事故などで他者と一緒に死ぬ場合も、
意識が薄れかければ、自分ひとりであろうと、大勢であろうと変わりはない、と思う。
「孤独死」とは、どのような経緯でnamingされたのか?

またまた『広辞苑』を引くと、「看取る人もなく一人きりで死ぬこと」とある。
そこで「看取る」とは? 死ぬ時点にヒトが付き添うことらしい。なるほど、
ヒトが傍で見ていれば、「孤独感なく」意識を失うことができる、ということか!
とすると、事故死の場合などは、圧倒的に「孤独死」ということに?
違いは何か? 瞬間か、意識が消えるまでの時間経過か?
しかし、「孤独」という言葉には、どうもそれだけではないらしいニュアンスが、
付きまとっているように思えるので、ちょっと検索。

『漢語林』で「孤独」を引いてみると、
ひとりもの、よるべのない人、助けのないこと、いやしい、そむく、遠ざかる……。
ナルホド! かなりマイナーなイメージを抱え込んでいる!

では、英語の「孤独」はどうか?
“loneliness”はひとりぼっちで寂しいことだが、寂しさを含まない“solitude”もある。
オモシロイことに、
「孤独に暮らす」とか「孤独を愛する」では“live in solitude”とか“love solitude”、
「孤独死」は“solitary death”で、「孤独を感じる」は“feel lonely”となる。
さすが、合理的な言語だ! 朝比奈の予想どおりである!!

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Photo by tvdflickr

つまり日本語の背景には、島国共同体文化の心性が濃厚に流れているということでは?
島国共同体文化で2000年以上もやってきた日本人の心性は、
臨終に際して、一族郎党・親類縁者などが寄り集まって
当人の顔を覗き込んだり、呼びかけたりしなければ済まなかったのである。
しかし高齢者の死の現実は、決して「そうではなかった」にちがいない!
「姥捨て」という風習もあったのだ。もっとも姥捨て場には、
同類がけっこういて、ホントに死ぬまで共同生活を営んでいたらしいが。

「孤独死」というnameに含まれていのは、
もっぱら「後始末に伴うキタナサが纏うメンドーさ」ではないか?
このスリカエは、若さという上からの? 傲慢目線?
つまり、「孤独」なんていう「本人の心性」を意味するコトバに、
勝手に置き換えてしまう。本人は「孤独感」なんてないかも知れないのに!
正確性から言えば「孤立死」の方が、心性を含まないだけ、妥当かも。

それはともかく、「孤独?死」する側の話。
「意識を失って死に至るprocessでは、至福感に満たされる、実際、生理的に」
この至福感(脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィンなどの問題で、
古来、“阿弥陀様が来迎した”などというのはコレである?)の中では、
他人が周囲に居ようが居まいが……むしろ、周囲にヒトが寄り集まって
覗きこんだりされれば…………、「死ぬまで“気を使わせないで”」と、思うのだが?
問題は、後始末なのだろう! ウマイ始末の仕方を考えてみよう!


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2018.09.19

危機?恐い!Communication niche

先日、区内の「いきいきプラザ」で開催されている、
英会話レッスンらしい広告を見つけ、訪ねてみた。
広告文に「英国人講師サークル」とあったのだ。
翌日、ブツブツ言っている朝比奈に、相棒Sのcheckが入る。
「朝比奈さん、どこにも指導という表記はありませんよ、サークル」と。
確かに、広告に偽りはない! 邪魔したのは、朝比奈自身の先入観である。
どんな「先入観」か、といえば、
「講師が、メンバーの未熟な英語表現をいろいろ正して、
広告文の“ブリティッシュイングリッシュ”らしく指導してくれるのだろう」と。

道に迷って、だいぶ遅刻して到着したので、状況がわからない。
早速、順々に(朝比奈のために)自己紹介が繰り広げられた。納得。
英国人講師の長い自己遍歴紹介。ふむふむ、listeningの訓練ね。
各自のself-introductionも、たどたどしい人もあるが、楽しい。
朝比奈の番。当然の予想で、準備していたから難なくスルー。

先輩の中には、迷走し、助けを借りている人が少なくない。
ここで、第1の合点。つまり、
英語能力ではなく、「言語表現&会話構築力」の問題なのだ。つまり、
よく聴いていると、その人が日本語で話す場合も、同様のコトが生じている。
事実関係と感情移入、論理構築と展開が、混じりあってとてもアヤウイ。
言語表現以前の、情報処理の問題なのだ。これを外国語でやろう、というのは無理だ!
隣席の朝比奈は、「感情部分を切り離し、客観的に表現しないと」と助け舟。
しかしこれは、ごくごく親密な場合を除けば、母語表現においても同様である。

どうやら、Communication以前の問題で、自己と他者の境界が曖昧のようだ。
勤務先の上司とのモンダイに苦しんでいるようだが、聞いていると、
両者ともにCommunicationの基本、つまり自己vs他者の関係が
認識できていないようだ。端的に言えば、両者ともに
自身の論理で、相手を認識・判断・発言していることのクイチガイという、
永遠に? 妥協点の見いだせない「話」なのだ、ということがわかった。
このグチを英語で表現してもねぇ……、
だから彼女は、必死で苦心惨憺しているのだ。
つくづく、古き良き島国共同体・日本人的心性ですねぇ……と。

そして驚いたのは、メンバーへの連絡はLINEが使われているという。
LINEを使わない(使えない・使おうとしない)朝比奈はコマッタ!!
が、ここで大いに合点!! 何を?
会話のすべてが、短いsentenceばかり。まるで緊急速報のtelop並み?
講師が話す自身エピソードは、hearing練習にはなるけれど……
それなら、CDでKazuo Ishiguro とかStuart Dybekのお話を
聞いていた方が楽しいな、第一(小っちゃい声で)、on bedでも聞けるし、
何回も、何回も……、安いなぁ……。

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Photo by christophercjensen


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2018.09.07

介護人材確保と日本語能力

先日、介護実習生の日本語能力に関する報道があった。
またしても、日本語能力でつまづいたか! さもありなん、と思う。
そう思う根本には、「日本人は、なぜ、言葉に頼るのだろう?」ということがある。
朝比奈は、英語はもちろん外国語は×である、が
海外旅行で、そう不自由を感じたことはない。
東欧から出稼ぎの、雲助タクシー・ドライバーとケンカもした。
コツがわかれば、けっこうウマク通じるものである。
スピードの速い大都市で、交通機関などを利用する場合でさえそうなのだから、
介護現場に「日本語能力」を云々するのは、お門違いだと思う。
日本語能力を云々するのではなく、
コミュニケーション技術のレッスンをすればいいのだ!

生活上の基本言語数というのは、そう多くない。しかもこれには、
万国(多くの文化圏)に共通の、人類的表現形態というのがある。
1~2週間もすれば、どの程度のスリ合わせが必要なのか、が分かるはずだ。
海外からの実習生に求められる日本語能力のうち、
「日常会話は分かり、新聞は見出しが分かる」というのには、驚いた!
ボディ・ランゲージなどは無視なのだ!
お役人や大学などの専門家の考えそうなコトである。

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Photo by Lars Plougmann

介護現場に抽象的な言語は不要だ! ならば、
介護される人を観察する方法を(システム化して)教え、
その趨勢に対する対応法を、これまたシステム化して教えればいい。
なぜ、日本語能力にこだわるのか? 日本文化を刷り込み、
日本化させよう、というのではないか? あくまでも日本人発想である!
これは、民族文化の冒涜ではないのか?


世界中を見渡して、“お腹が痛いときに、頭を押さえるヒトはまずいない”。
手当ては、手を当てることだ!
この原理は深い。万国共通語であり、万民共通語という「感覚」がある。
はっきり言って、日本人にはこの能力の少ない人が多そうだ。
つまり、かなり均一な民族習慣・言語で生活している人が少なくないから、
言語が壁になるのだ。日本語表現の、微妙な部分まで云々することになる。
この尺度は問題だ。言葉に頼るより、マインドやエモーション(情動)を、
アバウトに把握し、あとは、イエスor ノーの反応を積み上げていく、
こうしたコミニュニケーション技術は、歴史的に
多言語圏で生活している人々はウマイ。体質化しているのだ。

「日本語能力試験の合格目安」を見て、驚いた。
【N1】講義を理解でき、評論を読解できる
 → 日本の学生と較べてみよう!
【N2】ニュースなどが分かり、新聞記事が読める
 → 6カ月くらい日本にいればOK! 介護現場の能力に、どれほど関わるの?
【N3】日常会話は分かり、新聞は見出しが分かる
 → ▲N2と矛盾しない? 「新聞は見出し?」そんなん、無視して生きてる
 オバチャンたちが、見出し読んでる人より、立派な介護ができる!
【N4】日常会話はややゆっくりならほぼ理解でき、簡単な単語や漢字の文章は分かる
 → 前者はともかく、後者は特に必要とも言えないのでは? 第一、漢字という、
 中国生まれ日本育ちの文字に、なぜ、こだわるの? Globalizationの時代に?

★これは、ある意味で言語差別では?
日本人同士で、話の通じないヒトはいくらもいる!
言語とは、「意識」を表現する手段だが、どうも日本人は狭い意味の「言語」しか、
念頭にないのでは? と思う。
日本の受け入れ側がこの姿勢なら、今後の介護は思いやられるのでは?と。


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2018.05.28

我らは“神話世界”から抜けられないのか!?

これは、驚くべき事実である!
「神話」というのは、古代人の心性が安住した、
荒唐無稽な“神様の世界”の話だ、と思っていた。が、愕然とした!
このところ故あって、毎晩on bedで『神話作用』(ロラン・バルト著、
篠沢秀夫訳/現代思潮社/1980年発行)を読んでいる。
古色蒼然としたボロ本だが、鉛筆のサイドラインがあるところを見ると、
かつて、1度は、読んでいるはずである。

バルトの文章や思考経路もややこしいが、朝比奈の脳システムが、
まるで、オヨビデナカッタことに気付いた。
おそらく、前回に読んでから5~6年は経ているだろう。
脳のdeep learning system というのは、なんと頼もしいヤツなのだ!
この5~6年の間にじっくりと、古い情報や、どんどん放り込まれてくる新情報、
これまで知らなかった新しい視点、論理回路、などなどを取り込みながら、
組換え、こね回していたに相違ない。
そして、ヒトが有史以来つきあってきた「神話System」が、
「小賢しく気取っている現代人を、いとも容易く手玉にとっている」のだ
というshocking な事実を、突きつけてきたのである!

TV画面に魅力的に躍るファッションや旅行地、政治的な抗争や悲惨な戦争……などが、
「神話System」にどっぷりとハマり込んでいるという。
突き付けられる事実には、慄然とたじろぐばかりである。
とにかくヒトは、まっさらなデキタテの独自の視点で、モノ・コトを見ることが、
この上なく苦手らしい。「一切の先入観なく、ありのままをリアルに見よう!」と
決意したところで、脳は、視覚野に入る情報に、“頼まれもしないのに”
貯蔵記憶情報を勝手に照合しながら、坦々と(その実トビトビ)流れる
意識情報に入れ込んで、都合のいいように話を組み立てている。
目の前に立つ美人の細部が、グラビア・モデルのそれと、
入れ替わって組み立てられている、などというのはよくある真実らしい。

しかし雑誌のグラビアをはじめ、およそあらゆるmedia、もちろん政治も、
この手の魔法を意識的or無意識的に駆使している、というのには驚いた!
そしてこの「魔法」とは、「神話System」であるという。
何しろ「神話System」は、人類文化の曙のころから、ヒトの脳に入り込み、
それを操作してきた。しかし21世紀にもなって、コンピュータを操り、
scientificな思考回路が少なからず出来ている社会そのものが、
「神話System」に操られている! そして「神話System」の大盤振る舞い、
垂れ流しの筆頭は、TV&WebのCM。ふと、確かに! と気付いて愕然!!

なにより恐ろしいのは、「自覚なく誘導されている」ことである。
映像と音楽は、言語思考・論理思考を飛び越える。
これは、「神話」時代の巫女やいまだ原始文化を伝える地域の
シャーマンたちが誘われる変性意識状態に誘導されやすい。
大規模な音楽イベントで、失神者が出るのも、この習俗の名残といえよう。
「自覚なく、意識が変わる」ことの恐さを、深く自覚する必要があるだろう。

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Photo by PolandMFA


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2018.05.09

share & demonstration, お裾分け&示威行動

昔むかし、1975年ごろのことだったが、
「知的ミーハー」という言葉が流行ったことがある。それが現在も、
いや、現在はもっとimpactをもって流行している現象である、
ということを知って、驚いた! 当時に比べれば、比較にならないほどの
高度情報時代なのだから、今さら驚くに当たらないのかも知れない、が。

高度情報時代というより、爆発的情報時代というのが、適切な表現だろう。
その牽引toolはinternetであり、そこで運用されている
SNS(social networking service)だ。
現に、朝比奈のこのblogも、その恩恵を受けている。
日夜、世界中(地球表面&低層空間)で、莫大な情報が流動しているのだ。
重要なことは、それら莫大な情報に、恣意的な情報が、天文学的数字量で、
含まれていること。「恣意的な情報」とは、勝手気ままな情報ということで、
最悪の場合が「一緒に自殺しましょう、殺人しましょう、ギャング……」という誘い。
しかし、コワイことは山ほどある! 上記「  」内情報などは、
ストレートなら、検閲に引っかかりやすい。

しかし、ヒトの脳システムの働き方を変えていく手法は、検閲をスリ抜ける。
判断基準が作りにくいからだ。そういった内輪のコトはともかく、
表層の問題も、爆発的に脳システムの恣意的な操作にハマッテいる
さらに、この問題が活字文化のスタイルにまで及んできているのが、重大問題!

重大問題のpointsは、
まず、「それ、知ってる!」という会話だ。朝比奈の頭脳は、極めて愚鈍で、
話についていけない。一例を上げれば、「構造主義」を理解するのに、
40数年かかっている。昨秋来、やっと理解できたのは、
カッシーラの『人間』(岩波文庫)に出会ってからだ。
同書の前に、彼の数冊を読んでいた。が、
構造主義者たちの追った「神話の構造」がわかったのは、
やっと、『人間』に至ってである。

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ふと、「それ、知ってる!」とか、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)で、
構造主義がワカルというのは、どのような脳のコウゾウなのだろうか? と、
首をひねる。『人間』を読んで驚くのは、カッシーラが、
「構造主義」を標榜する学者や思想家、作家たちを、次々と鋭く追及していくことだ。
「現今の日本だけじゃないんだなぁー、似非学者に追随するのは……」と思う。
自身が知ってることを「お裾分け」しながら、自身の存在を「示威」する、
これは、人気者、有名人、権威者……といった、nameが大好きな日本人にぴったり?
最良targetとして大量出版する、大手出版社の姿勢には、
口をポカンと開け、その構造を想像しながら、眺めるのみである!


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