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書籍『クレオパトラⅦの追憶』(デジタル版&アプリ版、発売中!)は、
2000年の時空を超える女と男の心理を丁寧に読み解き、
歴史の真実をあぶり出す、洗練された高貴で華麗な愛の物語。

クレオパトラⅦを追って、UPされたのが
『YOGA COSMIC SYSTEM 0・1の彼方へ 能力覚醒独習法』と
『般若心経&YOGA 四苦・八苦の彼岸へ』。
on tour 気分も味わいながら、舞台裏話へのご潜入を!

そしてon tourから、グ~ンとWARPして
YOGAと瞑想のブログ“Open! Mind & Body,”へ!!
2019.02.01

星座占い? 神話的思考の凄さ!?

もう、すでにこのblogで何回か紹介しているから、
「またか!」と思われそうなのでビクビク……。
しかし、なんとまあ、我々はドップリと神話的思考に染まってしまっているのだろう!

雑誌をぴらぴら眺めているうちに、「今年の運勢」のページがあって、
双子座の朝比奈は、ほとんど無意識に読み始めていたのだ!

「この特徴がいかに根深いものであるかは、純粋意識と「正確な」空間直感が
どれほど進歩しても、それによってこの特徴がけっして完全に押しやられはしなかった

というところに特にあらわれている。」

『シンボル形式の哲学』(二)である。
朝比奈のこのblogの読者さんは、「またか! 同じネタだ!」と、
きっと辟易しているに違いない。そう「またダ!」 なんてこった!
数カ月前に、「そうだよなぁ、原始信仰のレヴェルだよなぁ」と、
痛く反省したはずなのに、「また、ヤッチャッター」なのである!
我らの深層記憶とは、なんとシツコイ・ヤツラなのだろう!?

シツコイ? そう、シツコイ! ひょっとして、シツコイ・ヤツラは、
みんな手を取りあって、スクラム組んで、いるのではないだろうか?
ということは、「何か?」「よっぽど侵攻されたくない?」「大切な何か」があるのでは?
そんなに、大切なことって、何だろう?
『クレオパトラⅦの追憶』(→コチラ)を書いたときに紹介した、
ピラミッドの天井に描かれた、今日ではパリのルーブル美術館に展示されている
天球図も……。 どうやらヒトは、
結局のところ、“未来のこと”を知りたいのらしい。

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ⓒSebi

ふと、未来って、何だろう? と思う。そして、そうだ! 
古代人は、そんなに未来なんてこと、考えなかったんだ。と、思いだした。
うん、うん、と、“神話的思考”(上記、第二部第二章 神話の形式理論の基本的特徴)の
ページを繰ってみた。朝比奈の本は、色とりどりの付箋が立っているし、
サイドラインもぐちゃぐちゃ引いてあるから、ホイ!アッタ!

「占星術的考察の基本原理をなす惑星の作用を、むしろ一種実体的内在に変えてしまう
ような言いまわしで言いあらわす……」
形式の直感が、そのまま内容の直感に溶けこみ、惑星界の星位と溶けあっている
「全体の構造的法則と宇宙の形式とが、直感的な明白さと精確さであらわれている」


ああ、無情! またもや「直感」に遭遇! である。
「脳」の、いまだ解明されていない、高次機能である「直感」への逢着。
ナンテコッタ! 「直感」とは何か?
うん? それこそ「直感」で答えは出ないのだろうか?


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2018.12.07

麻薬と超越と現実と

12月2日、朝日新聞の「Globe」で“「麻薬」のある世界”と題した特集を行っていた。
YOGA屋の朝比奈は、1970年代初頭から“麻薬の世界”を追っている。
手元に、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』がある。
原題の『The Doors of Perception』は、ロック史に数々の伝説を残した
【Doors】のバンド名になったことで、欧米・日本などで、
原題を知らない人々にも、音楽とハッパで、世界的な大ブームを起こした。
「ラリル」という言葉が出現したのも、このころである。
当時のコトを知る朝比奈のような婆は減ってしまっているので、
若者の皆さんに“お伝え”しておきたいコトがある!

この異国情緒豊かな、カッコイイ文化は、大いにウケタ! それは、
その25年前、太平洋戦争終結戦直後の、暗い日本の実状を
塗り替えるものであった!? のだから……。
終戦直後の日本社会には、麻薬(覚せい剤:ヒロポン)が蔓延していた!
ヒロポンは日本陸軍が製造させ、兵士たちの戦意高揚のために、使用させたのである。
ヒロポンはドイツ学派の呼称で、アンフェタミンなど一群の化合物の総称だ。
当時、同盟国(日・独・伊)のドイツそして日本では、
この種の開発が積極的に行われており、米国のスパイたちも横行していた。
そのあたりのピリピリした状況は、前にも紹介した
『部分と全体』W・ハイゼンベルク著(→コチラ)に詳しい。
また日本は、中国の東北地方で大規模なケシの栽培も行っていた!

そして戦後復興がひと段落したころ、もともとインドを植民地化していた
経緯のある英国の若者たちが、頭打ちの社会状況にダレ、大挙してインドを目指した。
前記の【Doors】や今日でも活動している【Pink Floyd】などである。
数千年の歴史をもつインドでは、宗教儀礼や呪術で、大麻やケシの実などが、
幻覚剤として使われていた。
ちなみに、日本の伊勢神宮の「木箱入りのお札」の中身は、大麻の実である!
そして仏教の、密教系寺院で加持祈祷を行う際に、
護摩焚きという焚火の中に放り込むのも、大麻の実である。そして驚くなかれ、
この学名は「Cannabis sativa」。
日本語の「カンナビ:神名備」は、神の鎮座する山や森。
「sativa」は、サンスクリットの菩薩を意味する「bodhisattva」と同種だ。

植物・薬物・神経薬(幻覚剤)が、いかに深くヒトと宗教と戦争と、関わりを持ってきたか!
歴史・文化を世界的に繙いていくと、目を瞠るばかりである。
古来、人類にとって、「苦」から脱出するには、“幻覚剤”が、いかに重要であることか!
続きは、またのお楽しみに。

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Photo by philipsteffan


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2018.11.19

語感の不思議と、その魅力

ジャングル(jangle)という言葉がある。アマゾンなど、熱帯の密林を彷彿させる。
これは、「絡みあった」とか「散らかり放題」を意味する英語だ。
これに似ている言葉に「tangle」があり、
「もつれさせる」「巻き込む」「巻き込まれる」と。

ここで朝比奈は、うーん、と唸ってしまった!
日本語に、“ぐるぐる巻き”にする、というのがあるではないか!
何かを束ねるとき、“ぐるぐる巻き”にして束ねる、と。
また、“ぐるになる”といえば、「悪巧みなどの仲間。共謀者」と『広辞苑』にあり、
浄瑠璃の『菅原伝授手習鑑』に登場というから、江戸時代の用語である。

人類共通の感性なのか!? と、ひどく驚いた。
それは、たまたまon bed の読書で、毎晩2~3ページずつ読んでいる
『シンボル形式の哲学 [三] 認識の現象学(上)』(カッシーラー著、
木田元・村岡晋一訳)のせいである。同書は、このblogで以前にも紹介している。
「今さら驚くことないでしょ!」といわれそうだが、
擬態語や擬声語は、文化圏によってかなり異なるのが一般的なのだ。そこで、
これは、ナンダ! どういうコトか? と、しばし考えて、思い当ったことがある。

ブンカ(文化)がブンカ(分化)する前の、感性言語段階の表現ではなかろうか? と。

アタマの中が、jangle・tangleぐるぐる巻きになったところで、
「もう、ネル! お前のせいだ!」と。
しかし、この書のもつ、手放し難い魅力がよーく分かった!
“アタマの中が、jangle・tangle・ぐるぐる巻き”になっていく、
原始回帰の心地よさ、始原への旅、超時間の魅力なのである。



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2018.11.12

脳の洗濯とパラダイム・シフト

編集屋というのは、世間を見回して、いろんなところへ首を突っ込んでいく者だ。
日々、いろんな世界を覗き見していると、ちょっと驚くことがある!
世界、この場合は生活圏とか職業分野といった意味だが、
業界、が違うと、頭脳構造(この場合は、思考の動き、組み立て方
というようなソフト面)が、著しく異なる。当たり前だ! といわれそうだが、
びっくりし、とまどった経験のあるヒトは、どれほどいるだろう。

ドンカン、不器用なのかも知れないが、朝比奈はしばしばカメレオン気分になる。
ある人々の前に立つと、まず、カメレオンは「どんな色になるか?」を、
しばし考えなければならない。本物のカメレオンは、驚くほどとオリコウで、
身を置く所と周囲の色の中で、まず、直下と体側にある木の枝や葉っぱの色に合わせる。
そして、じりじりと前進しながら、周囲の色の変化に対応していく。
朝比奈の場合は、カメレオンより処理する周囲情報の種類も量も多いし、
なんといっても、カメレオンのように、ひとつかみ・ひとつかみ? ずつ
進むわけにはいかない! 「ひとつかみ」というのは、乗っかっている枝を、
前足(手みたいに見えるけど)の指でしっかりとつかみ、後ろ足を引き寄せては、
かわいい前足の指をひらいて、その前方地点へ動かす。その間、ちっこい目を
キョロキョロ内気そうに動かし、なんともナイーヴ。
こんなヤツと一緒に暮らしていたら、仕事なんかデキナイだろうな、と思う。

はて、何の話だっけ? ニンゲンの場合は、そうそう、
前へ進むと、周囲の風景が変わるだけでなく、周囲は刻々と変わるヒトの顔であり、
顔だけでなく、その口から吐き出されるコトバが、無限に、
トンデモナイ世界・社会を音波でまき散らす。
それでしばしば、頭の中は???となる。
そしてその最大原因は? 音波と感じていたコトバがそれぞれ、
ヒトごとに違う世界を主張しているのである??? それで、
訳も分からず、癪に触ったりするのだ。
“訳も分からず、癪に触る”ということほど、理不尽なことはない!

じっと考えていたら、この解消法がみつかった!
つまり、同じ言語、日本語同士で話していても、脳の情報回路が違っていて、
また、回路がグチャグチャだったり、小さく固く、固まっていたりすると、
論理がうまくかみ合わないのだ。そこで、どうするか?
パラダイム・シフト、つまり、考え方の枠組み自体を変えてしまうのである。
そう、これは便利な方法だ。
A案とB案をそれぞれ主張して戦っていたのが、
X案の提案を受けて、両者とも「ああ、その手があったのか!」というやつである。

ところが、コノ手が、そう簡単にいかない場合があり、どうするか?
もう、アタマの洗濯をするしかない! お酒を飲んでカラオケなどという手もあるが、
本物の洗濯法は、「図」を画くという方法。
最初は、「ドラえもん」なんかを画きながら、自身の考えをだんだんと、
ルービック・キューブを回すように、多面的に組み合わせてみる。
これはオモシロイ! 相手の論理を認識したら、カシャッと回してみる。
世界が、まるで変わるのだから、オモシロクテやめられない! そのうち、誰もが
「そんなのアリか? いや、これはスゴイ! 大いにアリだ!」となるのである。

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Photo by avrene


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2018.10.12

孤独死とは何か? 死ぬ時は“孤独”でしょ!?

前回「孤独死」について書いたが、どうも、イマイチすっきりしないので、
さらに追求してみたいと思う。
まず、「孤独死」という概念が、問題である!
死ぬ時は、通常、自分ひとりである。心中や事故などで他者と一緒に死ぬ場合も、
意識が薄れかければ、自分ひとりであろうと、大勢であろうと変わりはない、と思う。
「孤独死」とは、どのような経緯でnamingされたのか?

またまた『広辞苑』を引くと、「看取る人もなく一人きりで死ぬこと」とある。
そこで「看取る」とは? 死ぬ時点にヒトが付き添うことらしい。なるほど、
ヒトが傍で見ていれば、「孤独感なく」意識を失うことができる、ということか!
とすると、事故死の場合などは、圧倒的に「孤独死」ということに?
違いは何か? 瞬間か、意識が消えるまでの時間経過か?
しかし、「孤独」という言葉には、どうもそれだけではないらしいニュアンスが、
付きまとっているように思えるので、ちょっと検索。

『漢語林』で「孤独」を引いてみると、
ひとりもの、よるべのない人、助けのないこと、いやしい、そむく、遠ざかる……。
ナルホド! かなりマイナーなイメージを抱え込んでいる!

では、英語の「孤独」はどうか?
“loneliness”はひとりぼっちで寂しいことだが、寂しさを含まない“solitude”もある。
オモシロイことに、
「孤独に暮らす」とか「孤独を愛する」では“live in solitude”とか“love solitude”、
「孤独死」は“solitary death”で、「孤独を感じる」は“feel lonely”となる。
さすが、合理的な言語だ! 朝比奈の予想どおりである!!

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Photo by tvdflickr

つまり日本語の背景には、島国共同体文化の心性が濃厚に流れているということでは?
島国共同体文化で2000年以上もやってきた日本人の心性は、
臨終に際して、一族郎党・親類縁者などが寄り集まって
当人の顔を覗き込んだり、呼びかけたりしなければ済まなかったのである。
しかし高齢者の死の現実は、決して「そうではなかった」にちがいない!
「姥捨て」という風習もあったのだ。もっとも姥捨て場には、
同類がけっこういて、ホントに死ぬまで共同生活を営んでいたらしいが。

「孤独死」というnameに含まれていのは、
もっぱら「後始末に伴うキタナサが纏うメンドーさ」ではないか?
このスリカエは、若さという上からの? 傲慢目線?
つまり、「孤独」なんていう「本人の心性」を意味するコトバに、
勝手に置き換えてしまう。本人は「孤独感」なんてないかも知れないのに!
正確性から言えば「孤立死」の方が、心性を含まないだけ、妥当かも。

それはともかく、「孤独?死」する側の話。
「意識を失って死に至るprocessでは、至福感に満たされる、実際、生理的に」
この至福感(脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィンなどの問題で、
古来、“阿弥陀様が来迎した”などというのはコレである?)の中では、
他人が周囲に居ようが居まいが……むしろ、周囲にヒトが寄り集まって
覗きこんだりされれば…………、「死ぬまで“気を使わせないで”」と、思うのだが?
問題は、後始末なのだろう! ウマイ始末の仕方を考えてみよう!


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